1864年に創業されたイギリスのT.G.グリーン(T.G.GREEN)が手掛けた、ストライプが象徴的なコーニッシュウェア。コーニッシュブルーと呼ばれる鮮やかな青とアイボリーのような白の組み合わせがどこか不思議な懐かしさを感じさせてくれるキッチンアイテムです。
この食器にコーニッシュウェアという名前がついたきっかけは、青と白のボーダーが「コーンウォールの青い空と白い波みたいだ」と言われたことが始まりだったという話があります。誕生からちょうど100年経った今もなお、根強いファンのいるコーニッシュウェア。そこには波乱に満ちた歴史がありました。
チャーチ・グレスリー
イングランドにおいて陶器作りは、帝政ローマの時代から行われていました。ほぼ中央に位置するダービーシャーでは、焼き付け瓦や緑釉の水差しなどが中世から18世紀まで広く作られていたようです。18世紀後半には、塩釉のかかった実用的なストーンウェア(炻器・せっき)の製造が盛んになり、19世紀になるとダービーシャーの多くの地域で原料の粘土と火力の元である石炭が十分に供給されるようになったため、ここで産業としての窯業が確立されました。そのひとつがチャーチ・グレスリーという町で、最盛期には10以上の窯元があったことが知られています。
チャーチ・グレスリーにあったT.G.グリーンの基となった陶器製造所は、1790年代にリーダムという人物によって作られました。1798年にウィリアム・ボーンの手に渡り、1819年にはその息子ジョセフ・ボーンが跡を継ぎましたが、なかなか経営は安定せず、その後持ち主が何人も変わっていきます。そして1851年頃に経営者となったのが、フェントンのフォーリー工場のオーナーであったヘンリー・ワイルマンでした。このワイルマンに、新婚旅行中だったトーマス・グットウィン・グリーンがスカボローの町でたまたま知り合い、見に行ったチャーチ・グレスリーの製造所がとても気に入って買うことになり、T.G.グリーンとしての歴史が始まったのです。
T.G.グリーンの誕生と成長
トーマス・グッドウィン・グリーン(1826~1904)
T.G.グリーンの社名のTとGって何だろう?・・・それは創業者「トーマス・グッドウィン・グリーン(Thomas Goodwin Green)」の名からとったものでした。T.G.グリーンの誕生にまつわるトーマスの、とある恋のエピソードは、ちょっとした有名な話です。
若かりし頃、20歳のトーマスにはメアリー・テニエルという思いを寄せる女性がいました。このメアリーは当時とても人気があった風刺画家のジョン・テニエル(「不思議の国のアリス」の挿絵を描いた人)の実の妹。しかし釣り合う雰囲気でなかったのでしょうか、求婚するもメアリーにはあえなく断られてしまいます。失意のトーマスはオーストラリアへと旅立ち、そこで彼女に相応しい男になるべく奮起して建築業で立派に成功し、財を成しました。やがて時が流れ、トーマス35歳の頃。メアリーの気持ちが変わったらしい、という話を聞いた彼はオーストラリアでの事業を売却しイギリスに帰国。改めてメアリーに求婚しました。そして3年後の1864年、トーマスとメアリーは新婚旅行の途中で立ち寄ったチャーチ・グレスリーの町にいました。そこでトーマスは小さいながらも魅力的な陶器の製造所を見つけます。彼は所有者だったワイルマンからその窯を買い取り、こうして新しい事業としてのT.G.グリーンがスタートしました。
トーマスには窯業の経験はありませんでしたが、試行錯誤の後、陶器作りは昔ながらの伝統的なやり方がベストであるという結論に至ります。地元で採れる石炭と粘土を用い、よく手入れの行き届いた製造所で作られたのは、黄色や赤色の陶器のベイカー、プディングボウル、水差し、ティーポット、ナッパーと呼ばれる調理用食器など。これらの製品はイングランド中部や北部の家庭でとてもよく使われ、1869年にはT.G.グリーンはかなりの利益を上げるまでになりました。
次に彼は、白磁器とテーブルウェアへ製造を拡大することを決め、1871年、元の製造所に隣接した谷間の土地に新しい工場を建設します。もともとオーストラリアで建築業をしていた彼は、湿地にまつわる色々な問題をクリアするべく自分で一から設計し、自分でレンガも積んで窯を造り、雇った労働者たちにはてきぱきと作業の指示をし、完成してみると、それは当時のイギリスの「窯業の都」ストーク・オン・トレントにあるどの大工場にも全く引けを取らない、立派で近代的な生産設備が整った工場になっていました。
トーマスの後継者と工場火災
トーマスとメアリーには四男三女が誕生しました。そのうちの長男スタンリーと次男ロジャーが事業に加わり、T.G.グリーンは1880年代半ばに有限会社となります。以前事務長をしていたヘンリー・キングが総務部長となり、その後、共同経営者に。そして1897年、トーマスは工場を息子のロジャーとキングに託して事業から引退します。ここからが、1964年まで途切れることなく続いた、グリーン家とキング家による長い経営時代のはじまりでした。1905年、トーマスはこの世を去りました。
その前年の1904年、トーマスが建てた工場が火災で全焼するという悲劇に見舞われます。これはチャーチ・グレスリーの町では大事件で、この様子を描いた絵ハガキが売られるほどでした。しかし幸いなことに工場はすぐに再建され、陶器の製造も再び開始されました。最新式の近代的な発電機を入れて建て直された新工場によって、チャーチ・グレスリーのT.G.グリーンは再びスタッフォードシャーの同業他社を抑え、最大の生産力を誇るようになります。
初期のT.G.グリーン製品
T.G.グリーンは、地元で採掘した陶石を用い、材料となる陶土はすべて自分たちで挽いたもので、釉薬も自分たちで作り、色の調合も自分たちで行っていました。あらゆるもの、機械や設備の修理に至るまで全部に社内の担当がいて、必要な物を作り使ってまかなっており、すべてが「自給自足」の理念のもとにありました。
コーニッシュウェアが登場する以前のカタログによると、T.G.グリーンでは実に様々な製品が作られていたことがわかります。黄色や白のキッチンウェア、白い病院用陶器、白いボーダーにプリント柄が入った黄土色のモカというシリーズ、政府刻印入り計量カップ、家庭用ストーンウェアやその他ディナー用品・紅茶用品などが、実用性に装飾性を加えて作り出されていました。当時人気の高かったのはミキシングボウルの「グリップスタンド」で、底をわざわざ斜めにカットすることによって、傾けてミキシングしやすいような工夫がされていました。これは後に特許を取得し2007年まで継続的に作られていた製品です。
コーニッシュウェアが生まれた時代
コーニッシュウェアの登場
1918年に第一次世界大戦が終結。戦後の空気はT.G.グリーンに新しい変化をもたらしました。1919年にゼネラルマネージャーとしてT.G.グリーンにやってきたフレデリック・パーカー。彼がコーンウォールの岸壁に打ち寄せる白い波と青い空の絶景にインスパイアされ、名付け親となったとも言われています。1923年、ついにコーニッシュウェア発売開始。デザイン性と実用性を兼ね備えたコーニッシュウェアは20~30代の主婦層のニーズにぴったりとマッチし、青と白のストライプのキッチンウェアが、イギリスのどこの家庭でも見られるほど世の中に広まっていきました。今からちょうど100年前のことです。
大恐慌から第二次世界大戦を経て
1929年に世界的規模で起こった大恐慌は、例外なくT.G.グリーンにも黒い影を落としました。当時500名の従業員を抱えている中、大恐慌の影響で経営状態はかなり厳しかったようです。それでも工場は毎年利益を出し、1938年には最新式のガス燃焼式のトンネル窯を導入するなど工場の近代化をはかりました。
しかし翌1939年に第二次世界大戦が勃発。T.G.グリーンでも製造ラインに必要な従業員が戦争に召集されてしまい、操業が困難に。更に戦時下のイギリス政府は国内の陶磁器産業に厳しい生産統制をかけます。コーニッシュウェア、ドミノ、ポロ、ストリームラインといった多色系のシリーズは、オーストラリアやニュージーランドといった植民地やヨーロッパへの輸出用のみの限定生産とし、国内向けに生産を許可されたのは、昔からあった黄色と白のキッチンウェアや新しいラインの実用品のみ。そんな中で、色付け無しの白一色のコーニッシュウェアが作られ国内向けに販売されていたのが面白いところです。生産規制がやっと解除されたのは、戦争が終わってしばらく後の1949年でした。
ようやく規制が撤廃されると工場は息を吹き返します。熟練した従業員を確保するのがまず大変な仕事でしたが、T.G.グリーンは徐々に生産力を回復し新しい設備を導入、そして新しいデザインが数多く発表されました。1950年代にはカラフルなモダニズムを反映したパティオやギンガム、サンバ、サファリなどのシリーズが登場。コーニッシュウェアとドミノに新色が出たのもこの頃です。他にも一般向けのシリーズを多く展開しましたが、やがて他社との価格競争や1955年に施行された購入税の影響が重くのしかかってきます。なんとか持ちこたえていたT.G.グリーンも力尽き、1965年、会社はついに任意整理へと陥ってしまうのです。